秀頼と淀殿の最後の場所がココ! | 山里丸の観光ポイント




秀頼と淀殿の最後の場所がココ! | 山里丸の観光ポイント

 

 

大阪城山里丸の観光ポイントです。

 

 

この山里丸は大手門から入ると、天守閣の裏側にあたるので、天守閣を見た後に訪れてみてもOKです。

 

 

 

 

 

石垣の模様ってなに?

 


山里丸には模様の入った石がたくさんあります。

 

 

これは刻印石(こくいんせき)といって、築城に携わった大名が持ってきた石という事を示すためのもの。

 

 

秀吉時代の大坂城は、縄張り(城の範囲や内容)を黒田官兵衛が担当したといわれ、徳川時代の大阪城の総奉行は藤堂高虎と伝わります。

 

 

両方の時代、築城に携わった大名は多く、調達した石を他の大名に持っていかれないためにこの様な印を刻んだといいます。

 

 

またこれと同じような刻印石は、名古屋城や姫路城、江戸城などでも見る事ができます。

 

 

刻印石広場の地図

 

 

 

 

 

 

 

機銃掃射痕が残る石


天守閣から降りてくる場所の入口付近の石垣に刻印とは違った石があります。

 

 

これは第二次大戦の昭和20年に空襲で付いた痕といわれています。

 

 

当時、陸軍の軍事工場や中枢機関があった大阪城は、空襲の的になり、石垣なども一部破壊されました。

 

 

現在では石垣などは修復されていますが、石を見るとその痕も残っているのです。

 

 

 

 

 

 

秀頼と淀殿最後の地


そして豊臣秀頼と淀殿の最後の地を示す石碑。

 

 

慶長二十年(1615)に起こった大坂夏の陣の時、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、最後を迎えたと多くの歴史記録に残っています。

 

 

その場所がこの周辺(らしい)です。

 

 

そのことにちなみ、平成九年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市によって石碑が建てられました。

 

 

当時は櫓があったようですが、現在では広場に石碑が建つのみ。

 

 

しかし大河ドラマや映画でもたびたび取り上げられているシ−ンなので、歴史好きな人にとっては印象的な場所でもありますね。

 

 

秀頼と淀殿最後の地石碑の地図

 

 

 

 

 


また同じ山里丸に秀頼と淀殿、そして亡くなった方たちの供養塔と墓があります。

 

 

これは昭和五十三年(1978)に建立されたおので、現在でも参拝者が絶えないとか。

 

 

秀頼と淀殿の墓

 

 

 

 

 

感想

正門から入ると天守閣の裏側になるので、先に天守閣に入ると満足してしまい忘れがちなる山里丸。

 

 

でもここも歴史的に重要な場所なので、忘れずにチェックしたいですね。

 

 

また個人的に思ったのですが、大坂夏の陣の時、最初千姫も秀頼らと共にここへ逃げ込み、この山里丸から徳川軍に向かったのでは?と思いました。

 

 

つまり千姫ゆかりの場所でもあります。(←ちょっとですが)

 

 

あと石垣の刻印も個人的に好きで、いろんなパタ−ンがありますが、刻印主がわかってくると、知っている大名なら親近感を感じたりする。

 

 

そして北側だし、日蔭だし、な〜んとなく暗い雰囲気も山里丸の特徴ですね。


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